『三国地志』では「福持九郞宅址 按馬野前司力裔孫九郞元乗居ス」とある。
天正7年(1579年)北畠信雄は織田信長に無断で伊賀に攻め入ったが、その一隊が柘植保重を大将として鬼瘤峠を越えてきた。伊賀衆は馬野の里に本陣を置いてこれを迎え撃ち、激戦となって大将柘植保重を討ち取った。(第一次天正伊賀の乱)
福持九郎城は一般的に福持氏城とも呼ばれるが、近くの坂下にある福持氏城と区別するため、日本城郭大系の福持九郎城として紹介している。
福持九郎城は福岡氏城、山下氏城と3つの城が近接して築かれたており、そのなかでも最も大きな城である。
主郭I1は伊賀の城としては基本となる方形の高土塁で外側に横堀を巡らせるプランで、この城も例外ではない。一番高いのは西の隅部であるが、北の隅部に土壇Aを設けている。これは山下氏城にも土壇Bとして存在しており櫓台とすることも可能であるが、宗教的な空間ではないかと考えられる。
主郭の漕ぐちは南東中央にあり、両脇を石垣で固めていたようで石が残存している。この虎口からやや斜めにスロープを降ると曲輪I2を経てI3に至る。
曲輪I2は造成は甘いが横堀I1の土塁がそのまま北側面へ回り込んでおり曲輪出会ったのは間違いない。曲輪I3との境には石塁と浅い溝が確認できるが、これは排水のための溝のようである。
曲輪I3は広い緩斜面地形で東端は福岡氏城との堀切になるが、その間にいくつかの段を築いている。このあたりも改変などを含んでいるが、曲輪として利用されていたと考えられる。
このほか、南の谷筋に曲輪I4、北の山下城との間にも緩斜面地形、堀切I1より上位部分にも石塁や削平地が確認できるが、城域の境目がどのあたりになるかは判断が難しい。
北側から中馬野の集落内に入ると小公園がありその脇に来訪者用の駐車場が数台分用意され、城の案内板が設置されている。
ここから歩いて一番奥にある民家二件の間を登って行くと福岡氏城、福持九郎城、谷の反対側に山下氏城へ行くことができる。
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