詳細不明。米良氏の詰城か。
『宮崎県中世城館跡緊急分布調査報告書』の村所城の項に新城の縄張図が記載されており、曲輪形状が似ているのでこの城を描いたもののようであるが、東の堀切がなく、周囲の地形図も現地と異なる。
林道入口と公園の所に標柱が建っているが、残念ながらそれに記されている文を読み取ることはできない。
新城は西米良中学校の南に聳える標高400m程の山に築かれている。山頂は新城公園として整備されたようであるが、現在は余り訪れる人はいないのか、雨量計や無線中継施設が建っている。
雨量計のある一段小高い曲輪を中心として東西に伸びる尾根に段々の曲輪を配している。東下は広くnttの無線中継施設が建っており、この部分は改変されているようだが、南側が自然林で北に土塁状の土盛りが残されている。さらに東へ続く小段を降りると石垣で固めた曲輪があり、その下を堀切で遮断している。この石垣も後世のものの可能性がある。
主郭の西下は主郭側に細く土橋状に繋がる土壇の付いた曲輪があり、さらに西へ曲輪が続いて先端を堀切で遮断している。
この山に登ってくる途中に「西郷坂」の標柱があり、それによれば西南戦争のときに新城の地に足を運び、児玉愛平氏の宅に宿をとったと記されている。
西米良中学校前の道を西に進んだ所に新城公園の道標が出ている。(地図)
ここから舗装された林道が公園まで続いており、狭いながらも山頂付近まで車で行くことができる。