築城年代は定かではない。発掘調査によって十四世紀から十六世紀後半まで利用されていたことが判明している。
天草五人衆の一人上津浦氏の所領で、その一族が城主であったようであるが誰が城主であったのか詳らかではない。『八代日記』によって天文13年(1544年)〜永禄3年(1560年)まで同じく天草五人衆の一人栖本城の栖本氏と棚底城を巡った争いがあったことが知られる。天文14年(1544年)までは上津浦氏の城であったが、その後栖本氏の城となる。永禄元年(1558年)頃から上津浦氏が棚底城を攻め、永禄3年(1560年)に棚底城は上津浦氏のものとなった。
棚底城は棚底川に沿って東へ伸びた尾根に築かれている。現在は国指定史跡となり綺麗に整備されている。
棚底城は西端の最高所に主郭を置き、そこから東へ伸びた尾根に段々の曲輪を配している。曲輪には1m未満の低い段差で石積がなされ、麓から続く城道は曲輪の側面を通って主郭へと続いている。
主郭は北側に横堀状の空堀を三段設けており、最下段は特に長く塹壕になっている。北西背後の鞍部にも一条の堀切を設けている。