築城年代は定かではない。
相良氏時代の佐敷城と考えられており、相良氏の家臣、東藤左衛門と東新左衛門が城代を務めていた。東藤左衛門は永禄10年(1567年)の大口の戦い左の腕を斬られて討死したという。
天正9年(1581年)相良氏は島津氏との争いで敗れ、芦北郡を割譲して降伏した。佐敷はこれによっては島津領に組み込まれ、天正11年(1583年)9月には宮原景種が佐敷地頭に任命された。
天正12年(1584年)島津氏は有馬氏からの援軍要請に応えて島原への出陣が決まると、島津義久自身が佐敷まで出陣して本陣となった。この戦いで島津家久が龍造寺隆信を討ち取ると、その首は佐敷に送られこの地で首実検が行われたという。
天正15年(1587年)宮原景種は豊臣秀吉による九州攻めで隈庄で討死している。
その後、加藤清正によって佐敷城が築かれ廃城となった。
佐敷東の城は佐敷城から佐敷川を挟んだ対岸の標高160mの城山(じょうやま)山頂に築かれている。
主郭は山頂の曲輪Iで、ちょうど扇の要のような位置にあり、ここから北に伸びる支尾根に曲輪を展開する。
佐敷東の城の特徴は尾根の先端を多重堀切で遮断するが、曲輪間を区画するような明確な堀は通路程度のものしかない。曲輪の切岸は主郭がやや高い程度で、他は低い段差で段々に造成して築かれている。曲輪には土塁がなく、虎口も主郭に開口部が二ヶ所確認できる他は明確な虎口を持たない。
主郭から北西に伸びる尾根には曲輪III、曲輪VIがあり、この曲輪の途中に栫集落から登ってくる山道が接続する。
主郭から北へ伸びる尾根には曲輪IIとVがある。曲輪IIのあたりには自然石を並べた石積が確認できる。曲輪IIとVの間は浅い溝で通路のようである。西側の谷筋には雛壇状に細長い平坦面が築かれ、東側の谷筋には畝状竪堀群6が設けられている。
曲輪IIから北東に続く尾根に曲輪IVがある。曲輪IVから北西へ伸びる尾根には土橋の掛かる堀切7があり、その先は西側のみ竪堀状に削り込まれている。北東の尾根先には堀切8があり、東側面には畝状竪堀群9がある。
主郭から南へ離れた位置に曲輪Xがある。北尾根を三条の堀切で遮断しており、独立した城としても良いような遺構である。この曲輪は北端に土塁があり、曲輪内部は小さな段に分かれている。三条の堀切の間は微妙な間隔が空いており、主郭の土塁との間も同程度の間隔が空いている。
入口はいくつかあるが、南麓の栫集落から登るのがわからやすい。 芦北ICのすぐ東側に集落の入口があり、奥へ進んで行くと佐敷東の城の標柱がある。ここからさらに登り、砂防ダムのある西の谷が入口で、沢沿いに登って行くルートがあるが、わかりづらい。
入口近くまで車で行くことができるが、川の南側、花岡浄水場の隣りにある花岡東公民館のあたりに駐車できるので、歩いていくのが良い。
最寄り駅(直線距離)