築城年代は定かではないが久玉氏によって築かれたと云われる。 久玉氏は天草氏の支族とされ、明応10(1501年)に天草一揆の一人として久玉氏が出てくるのが初見で、この頃には久玉城が築かれていたものと推測されている。
永禄12年(1569年)には河内浦城の天草氏の支城となっていたが、キリスト教の布教に反対する天草氏一族がこれを占拠し、島津薩衆家の島津義虎や肥後の相良氏の支援を受けて天草尚種に対抗した。しかし、天正2年(1574年)頃には落城し天草氏の支城としてキリスト教の司祭館なども築かれた。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦の後に肥前国唐津へ入封した寺沢氏の所領となり、現在の遺構は寺沢氏によって改修されたものと推測されている。
久玉城は久玉小学校の西にあり、南へ伸びた尾根に築かれている。かつてはこの辺りまで入江になっていたという。現在は県指定史跡として整備されている。
久玉城は北端の最高所から大きく三段の曲輪が南へ続き、東の谷間に大手があった。 大手入口には発掘調査で検出された溝などがあり、そこから奥へ登ると枡形状の虎口に至る。
南端の社のある平段の側面や、枡形のある曲輪の西側面などに高石垣があり、これらは寺沢氏の時代に築かれたものと推測されている。北端の主郭には土塁、北尾根には一条の堀切が残されている。
久玉小学校または無量寺を目指せば良い。国道266号線沿いに入口があり、その先に路側帯があって駐車することができる。