築城年代は定かではない。 阿蘇惟長は大宮司職を弟の惟豊に譲り、自身は肥後国守護の菊地家を継いで菊池武経と称した。しかし、惟長は菊地家の家臣をまとめることができず、隈府城から矢部へ戻り弟に譲っていた大宮司職を取り戻すため、島津氏と結んで惟豊を日向へ追いやり子の惟前を大宮司職に付かせた。日向に追われた惟豊は甲斐宗運の力添えで矢部を回復し、天文12年(1543年)には阿蘇惟前の籠った堅志田城をも落とし、惟前と子の惟氏は八代へ追われた。
その後、島津氏が堅志田城を狙って阿蘇氏と対立し幾度か攻防が繰り広げられ、天正13年(1585年)には島津氏が攻め落とした。
堅志田城は栫集落の南方に聳える山に築かれている。現在は主郭部が史跡公園として整備されており、主郭部のみなら簡単に見学することが可能である。
堅志田城は広大で主郭とされる曲輪は標高180m付近であるが、最高所はそこより高く、標高230mくらいの所にある。
主郭と二郭、そして南東の曲輪が整備されている。ここから北東の栫集落に向かって多重堀切や段曲輪の遺構が良好に続いている。主郭背後の多重堀切は珍しく、土橋が左端や右端に付いていて、ちょうどs字の如く左右に曲がりながら歩けるようになっている。
主郭のある尾根とは谷を挟んで南にある尾根にも曲輪群があり、南側面には非常に良好に残る畝状竪堀群がある。この曲輪群の西尾根は大堀切で、大堀切に面した曲輪の南西隅に折れを伴う虎口がある。
県道沿いに道標がある。道は細いが舗装された道が主郭のすぐ下まで通じており車で行くことができる。
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