築城年代は定かではないが平安時代末期に築かれたと云われる。 永治元年(1141年)頃には平時輔が飛騨守として在城し、平景高まで五代の居城であったという。
治承5年(1181年)木曽義仲が飛騨へ侵攻するが、城主平景綱は息子とともに京へのぼっており不在であった。
その後、藤原朝高の後、畑氏が在城するが、大永年間(1521年〜1527年)頃に畑安高は三仏寺城を三木直頼に明け渡して江名子の畑館に移った。
天文16年(1547年)三木氏の家臣平野右衛門尉が城主となり、その子平野安室の時に鍋山城を築いて移り、三木直弘が城主となった。しかし、永禄7年(1564年)武田信玄が飛騨へ侵攻すると直弘は城に火をけて桜洞城へ退いたという。
城は歓喜寺の北東にある山に築かれている。山頂部はほぼ同じ高さの尾根が南から北へ続いており、その稜線に沿って南の出丸から北の本丸まで曲輪が続いており、典型的な連郭式山城である。出丸はきれいに草が苅られていたが、本丸付近は標柱の部分を除いて草に覆われており、一部の堀切を確認できたくらいである。搦手(西側)に降りて行くと右側の谷の部分に畝状竪堀群が残っている。
歓喜寺から遊歩道がある他、西側に搦手がある。大手の登り口もあるようだが確認していない。
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