築城年代は定かではない。
貞治年間(1362年〜1368年)佐藤孫次郎は上杉憲顕の攻撃を受けて落城。応永年間(1394年〜1428年)頃には上杉氏の被官梶原周防守がヤナクネ城より移り、嘉吉年間(1441年〜1444年)頃まで在城したという。
天文年間(1532年〜1555)には黒田秀政が高梨貞頼に攻められ、内応した士によって殺された。天正年間(1573年〜1593年)には山田大膳がいたが上杉景勝に攻められ捕らわれた。
城は稲川と中山の間にある標高130m程の山頂に築かれている。国土地理院の地図にも荒城址と記されている程に知られた城跡である。しかし実際行ってみると案内板はおろか登山口さえもなく、稲刈りをしていた地元の方に話を聞くと、今は荒れ果てて道もないとのことであった。
城はちょうど尼瀬・中山と稲川を結ぶ道のトンネルの上から西の山頂、そして南東へ伸びる尾根に築かれている。山頂はやや平坦で東端に祠が祀られている。東へ伸びた尾根には堀切と削平地があり、ちょうどトンネルの上に大堀切らしきものがある。これは城の遺構ではなく切り通しのようでもある。畝状竪堀群も残っているとのことであるが、あまり明瞭なものは見付からなかった。
明確な上り口はないが踏み跡と旧道らしい道がある。トンネル北口の東側あたりから山に入った。
最寄り駅(直線距離)