築城年代は定かではない。
上総介館の名称は伝承に由来するものと云われる。城主の名から伝承されたとすると戸田秀盛の弟に戸沢上総介忠盛がおり、忠盛が城主として守っていた淀川城に比定される。
淀川城は史料にも登場する城で、天文年間(1532年~1555年)や天正年間(1573年~1592年)に戸沢氏と安東氏によって争われており、豊臣秀吉による命令で破却された戸沢三十五城の一つとされる。
上総介館は協和ICの南西、淀川に沿った丘陵に築かれており、主郭には荒木神社が祀られている。
神社境内となった最高所が主郭Iで北東下に曲輪IIがある。曲輪IIの北端部に土塁状の高まりが確認できる。外側は道路になっているが、これがもともと堀切だったようである。比高はさほどではないが、周囲は切り立っておりで要害地形をなしている。
主郭の西端から西山腹にかけてスロープがあり西麓近くには小規模な削平地が確認できる。城郭遺構かどうか判然としないが、北端部には土塁状に削り残した地形がある。
現在の参道は直接主郭に通じているが、麓の宅地のことろから曲輪IIに上がってくる道があるので、このあたりが本来の大手道だろうか。
南麓の参道入口がある。
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