築城年代は定かではないが浅利氏によって築かれたと云われる。 浅利氏は清和源氏義光流を称し甲斐国浅利郷を本貫とする一族で、甲斐浅利氏と同族で比内浅利氏とも呼ばれている。
明利又城は浅利則頼の居城で、後に十狐城を築いて移ったと云われている。
明利又城は小猿部川とその支流の沢沿いに伸びた標高272mの山に築かれている。
主郭は山頂で北西に伸びた尾根に段曲輪を配しているが、山頂から南東側は削平が甘く尾根をそのまま残している部分もある。北西の尾根先は不明瞭であるが浅い堀切が一条確認できる程度で、明瞭に遮断するような堀切は見あたらない。対して南東側は山腹にやや離れて長い横堀状の堀切が設けられており、さらに北側は畝状竪堀群がある。畝状竪堀群は二段になった堀切と同じく上下二段で、上が四条、下が七条確認できる。
北の県道沿いに案内板が設置されている。そこから南西に少し入ると公民館のような公共施設があり、その脇から南の橋を渡って林道を進めば登山道入口の標柱がある。
林道は車でも走ることができるが入口の公共施設の所に駐めて歩くのが良いだろう。
また、県道を少し東に進めば浅利氏の墓碑とされるものがある。
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