築城年代は定かではないが志摩利馬屋原氏によって築かれたと云われる。 馬屋原氏は鎌倉時代に志摩利庄地頭として入部し、有井城を居城とした国人領主であるが、馬屋原但馬守正国のときに九鬼城を築いて居城を移したという。
馬屋原氏は九鬼城を居城とした志摩利馬屋原氏と固屋城を居城とした固屋馬屋原氏がいるが、志摩利馬屋原氏が平姓、固屋馬屋原氏が源姓を称すなど、もともとは氏族であったようである。
九鬼城は久木地区の標高644mの山の北の峰を主郭として築かれている。
主郭は山頂にあり南北に長く広い曲輪であるが北端部は作業林道が付けられていて破損している。主郭の周囲は高い切岸で岩盤も露出しており、かなり急峻であるが、西側につづら折れで続く道があり、その下方に小さな溜池らしき窪地がある。
主郭から南東へ伸びた尾根は四条ほどの堀切で遮断してある。そこから南東のピークへは堀切近くに若干削平地があるが南東のピークは自然地形である。
主郭の北から東側面にかけて畝状竪堀群2と3があるが、作業林道によって損壊している。竪堀は規模が大きく幅7mほどの堀もある。北尾根は堀切1で遮断している。
主郭から北西に伸びた尾根に曲輪iiがあり、その間は切通道のようでもあるが堀切6がある。
西山腹に曲輪iiiがあり、そこから南へ進むと背後の堀切に続く山道が付けられているが、その途中に大きな竪堀5がある。現在の登山道がある西の池から堀切5、竪堀5に至る道は竪堀状の堀底道が続いている。
西麓にある池の脇に登山道入口があり、案内板がたっている。入口に一台駐車可能である。