築城年代は定かではないが、南北朝時代に馬屋原光忠によって築かれたのが始まりとされる。 馬屋原光忠は上総国馬屋原庄から故あって備後の有井城の馬屋原氏を頼ってこの地にきて、小畠に古屋をたてて住んだのが始まりで、このとき築いたのが古屋城の出城とも云われる低丘陵部分と云われている。
この固屋馬屋原氏は有井城からのちに九鬼城に移った志摩利馬屋原氏と同族とも云われるが、志摩利馬屋原氏が平姓を称したのに対し、固屋馬屋原氏は源姓を称しており、別家の可能性が高い。固屋馬屋原氏と志摩利馬屋原氏はそれぞれ独自の国人領主として発展しており、固屋馬屋原氏は後に毛利元就の一族から養子を迎え、長州藩士として存続している。
固屋城は神石高原町役場の北に聳える標高640m程の山に築かれており、現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にあり、そこから南西に伸びた尾根に曲輪iii、ivと段を重ね、南下に金比羅神社が祀られて曲輪vがある。主郭部の遊歩道脇には石積がなされているが、おそらく大半は公園整備による造成と思われる。
主郭の周囲は高く急峻な切岸となり、北側面に畝状竪堀群3、南東側面に畝状竪堀群4がある。北の鞍部には堀切状地形があるが、形状からして山道、切通の可能性が高い。
南西の尾根先には堀切1、南へ伸びた尾根には堀切5、6が確認できるが遊歩道によって分断されたり通路の一部となっている。東へ伸びた尾根にはほぼ自然地形の曲輪viiがあり、先端部分はやや切岸加工されている。
神石高原町町役場前に大きな案内板がある。登山道入口は出丸との間にあり、数台駐車可能である。