治承年間(1177年〜1181年)奴可入道西寂によって築かれたと云われる。
奴可入道西寂は治承4年伊予高縄城に籠った河野通清を討ち取ったがその後通清の子通信によって殺されたと云う。
戦国時代には西城宮氏の一族小奴可氏の居城で天文22年(1553年)尼子氏に従い毛利氏と戦うが討死し以後毛利氏に属した。
城は本丸背後の地山として削り残し土塁としており他にも随所に土塁が残っている。
居館跡と云われるところには要害桜(天然記念物)がある。
城へは国道314号線から西に入り警察所と郵便局がある角を山に向かって入る。しばらくすると要害桜の案内があり更に進むと墓地があるのでそこの空きスペースが駐車場のようだ。国道沿いの郵便局とは違うので注意。