西海道に位置する薩摩国は、延喜式の格付けでは中国・遠国である。「続日本紀」によれば大宝2年(702年)に政府に逆らったので兵を送って鎮圧し、常住の役人を置いたという。
歌人として有名な大伴家持は、天平宝字8年(764年)に薩摩の国司(薩摩守)に任ぜられているが、これは藤原仲麻呂暗殺計画への報復人事であった。翌天平神護元年(765年)薩摩守の任は解かれ、神護景雲元年(767年)に大宰少弐に任じられている。
薩摩国府は川内高校の北東部、薩摩国分寺跡の西側一帯に置かれていた。 住宅地ということもあって発掘調査は進んでいないようであるが、九州新幹線の整備計画による発掘調査で、京田遺跡から嘉祥3年(850年)の木簡が出土している。
国道267号線沿いにある川内歴史博物館に、薩摩国府国衙推定復元模型が展示されている。国府跡の案内板は資料館西の川沿いに大伴家持の銅像と一緒に掲示している。