山中鹿之介(鹿介)は出雲国の大名尼子家の旧臣で、毛利によって主家が滅亡した後、京都で僧となっていた尼子勝久を担ぎ再興軍を起こした。織田信長などの支援を受けて毛利に対抗したが、天正6年(1578年)播磨国上月城に籠城するも毛利軍に攻め落とされ、尼子勝久は自刃、鹿之介は捕らえられ毛利輝元のいる松山城へ護送される途中、阿井の渡しで暗殺された。
『山中鹿介胴墓』は「たいおうの丘ホスピタル」の近くにある。鹿之介の首は毛利輝元の元に送られ、その遺骸は観泉寺の和尚によって「石田畑」に葬られていたが、それを再度掘り起こして布片に包み瓶に収めて埋葬、墓碑を建立したものがこの『山中鹿介胴墓』である。近くには山中鹿介の墓がある。