築城年代は定かではない。城主は松倉周防守で、天正10年(1582年)細川氏の部将松井佐渡守康之との戦いで討死した。
丹後を平定した細川氏は久美浜城一万三千石を松井康之に与えた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では細川氏の主力は細川忠興に従って会津征伐に向かっていたが、松井康之は飛領地であった豊後国杵築城代として豊後に居た。石田三成が挙兵し丹後へ侵攻すると、留守を守っていた細川幽斎は留守居の諸将を田辺城に掻き集めて籠城した。このとき久美浜城も焼き払われた。
関ヶ原合戦後に細川忠興は豊前国中津へ加増転封となり、松井康之は豊後国杵築二万六千石が与えられて移り、細川氏が肥後国熊本へ移った後は康之の子興長が肥後国八代城三万石を領した。
久美浜城こと松倉城は久美浜小学校の西にある標高59mの城山に築かれており、現在は城山公園として整備されている。
大雨であったが傘を指しても登れそうな道であったため山頂の主郭まで歩いてみた。 主郭は山頂にあり、そこから東の尾根と北の尾根に曲輪を展開する。 東の尾根は段々に造成した曲輪群の東端に城山稲荷神社が鎮座している。 北の尾根は傘を指して降りるわけにはいかなかったので確認していないが、西側に土塁が付いた段々の曲輪群が残されているという。また、西尾根には堀切が二条残っているようである。
久美浜小学校の北側の府道11号線沿いに城山稲荷神社への参道入口がある。この参道がそのまま山頂の主郭に通じている。
最寄り駅(直線距離)