築城年代は定かではないが長享元年(1487年)頃に伊王野資清によって築かれたと云われる。伊王野氏は那須頼資の二男資長が伊王野を分知され伊王野館を構えて居城とし、伊王野次郎左衛門尉資長と名乗ったことに始まるとされる。那須六家の一つ。
天正18年(1590年)那須七騎の一人伊王野資信は、主家烏山城主那須資晴には従わず、那須衆として豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣したが、大関氏・大田原氏が沼津まで秀吉を迎えに行き従軍したのに対し、他の那須衆は小田原に参陣しただけであったので秀吉の怒りをかい、伊王野氏の所領は本領のみ安堵(一万三千石から七百石余へ)となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では徳川家康に属して上杉景勝の南下に備え、関山合戦で戦功があり二千石の加増を受け、旗本となった。寛永4年(1627年)伊王野資友が伊王野陣屋を築いて居城を移ったが、寛永10年(1633年)伊王野資房が嗣子なく没し伊王野氏は改易となった。
伊王野城は伊王野集落の北にある、南へ伸びた山塊の先端頂部に築かれている。 現在南西尾根の広大な曲輪の部分が公園として整備されている。主郭までは道が整備されていないが西の山腹にある竪堀と横堀の遺構は壮大である。
南西の標高290m付近に土塁が巡る広大な曲輪があり、南西端と北東端に虎口が開く。そこから北へ登っていくと社の祀られた曲輪があり、北東端に櫓台状の高台が残る。
堀切の北側が主郭であるが、西の山腹には横堀と堀切から変化した竪堀の遺構をみることができる。主郭の北側にも堀切で区画された曲輪が続くが、この辺りから重機によって切り開かれた作業道によって土塁や堀切が削られている。
車でも西側の国道294号線沿いから山頂近くまで登ることができる。歩いて登る場合は伊王野小学校の南側に駐車場があり、正福寺の隣から遊歩道がある。また学校の北東側の民家の脇から登る道があり、ここが大手口。
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