築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる。 長沼氏は下野国小山氏の一族で下野国芳賀郡長沼発祥、文治5年(1189年)源頼朝の奥州攻めのに参加して戦功を揚げ長沼城を居城としていたが、応永年間(1394年〜1428年)頃に鴫山城へ本拠として移ったと見られている。
永禄年間(1558年〜1570年)頃には葦名・伊達・二階堂などの諸勢力が長沼城を巡って激しく争ったが、最終的には葦名盛氏の所領となって新国貞通が城主となった。天正8年(1580年)盛氏が没して二階堂氏からの養子である盛隆が家督を継ぐと船岡館主松本行輔や貞通の弟笈川館主栗村下総とともに謀反を起こした。
天正17年(1589年)には葦名氏を滅ぼした伊達政宗の所領となったが、翌18年の奥州仕置によって会津に入封した蒲生氏郷の家臣蒲生郷安・蒲生主計が城主となった。 氏郷が病没すると慶長3年(1598年)には上杉景勝が会津に入封し信濃国長沼城より島津忠直が城主となった。慶長6年(1601年)には再び蒲生氏の所領となり蒲生郷治・玉井数馬介が城主となったが元和一国一城令によって廃城となった。
長沼城は東へ半島状に伸びた丘陵の先端に築かれている。現在は本丸を中心とした一帯が公園として整備されている。
頂部にある本丸には西端に神社が祀られ、それを取り囲むように内側に石積を持った土塁が巡る。本丸の西下にあるのが二の丸で西から南面に土塁と石積がある。二の丸と本丸の南下に南帯曲輪があり、本丸の南隅の張り出しを迂回して本丸東下の東三の丸に至る。二の丸の西下には西三の丸があり、ここから北へ降りて行くと大手口の竪土塁と西尾根を断ち切る大堀切があるが、この辺りは草木が鬱蒼と生い茂っている。この城には長沼小学校周辺を取り囲むように外郭が設けられており、畑などに一部土塁が残っている。
長沼小学校の北側に公園の入口があり駐車場がある。