築城年代は定かではない。暦応2年(1339年)土岐頼貞の孫、土岐明智彦九郎頼重が祖父の遺領を継いで妻木を領し、後に妻木城を築城したものと推測されている。その後、弘定の時に妻木氏を称したという。
天正10年(1582年)本能寺の変で妻木広忠は明智光秀に従っており、近江国坂本にて自刃した。一説に明智光秀の妻は広忠の女という。広忠の子妻木貞徳は織田信長の馬廻を務めていたが本能寺の変後は家督を妻木頼忠に譲り隠居した。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で妻木頼忠は東軍に属し、西軍に属した岩村城主田丸直昌の押さえとなり、土岐口などで田丸軍と戦いこれを敗っている。
妻木氏は土岐郡内にて七千五百石を領し、年代は不明ながら妻木城を廃して麓の妻木陣屋(妻木城士屋敷)を居城とし、交代寄合の旗本となった。 元和9年(1623年)妻木頼忠が没し妻木頼俊が家督を継ぎ、承応元年(1652年)には頼俊の子頼次が家督を継いだ。この時弟幸広に五百石を分知し七千石となったが、万治元年(1658年)頼次が没すると嗣子なく改易となり妻木氏嫡流は滅亡、妻木陣屋も廃された。
万治2年(1659年)先に五百石を分知されていた妻木幸広が妻木に所替えとなったが、その際拠点となった所は定かではない。
妻木城は標高407mの城山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあって南北二段で石垣によって区画され、東側に登り口が設けられている。虎口は下段の北側にあり枡形になっている。
主郭下は山腹を一周するような道があり、北に三の曲輪、南に南曲輪、東下は堀切と土塁があり、西側へ回り込むと巨石群を経て井戸、西尾根の太鼓櫓などの曲輪群に至る。 道標もしっかりしているので歩きやすい。
登山道は北側の県道38号線沿いにある妻木陣屋(妻木城士屋敷)からあります。また南側の山頂付近まで車道があり、これは県道19号線沿いにある名岐国際gcとの兼用入口から道標にしたがって進めば広い駐車場までいけます。
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