築城年代は定かではないが飯田氏によって築かれたと云われる。 太平記によれば、延文5年・正平15年(1360年)山名時氏・師義父子は南朝側に付いて美作に侵攻した。このとき篠向の城には飯田一族が籠もっていたが降伏した。
文亀年間(1501年〜1504年)には山名右近亮が篠向城主であったが、高田城主三浦貞連によって攻められ討ち取られた。貞連は家臣の福島氏や金田氏に在番を命じたという。
天正4年(1576年)三浦氏は毛利輝元によって滅ぼされ、高田城は毛利氏、篠向城は宇喜多氏の所領となった。
天正7年(1579年)毛利氏は織田氏と結んだ宇喜多氏と決裂すると、吉川元春に命じて宇喜多の諸城を攻めさせた。この時、大寺畑城、小寺畑城に籠もっていた宇喜多氏の家臣江原兵庫親次は天正8年(1580年)城を明け渡して篠向城に移った。しかし、翌天正9年(1581年)には篠向城も明け渡して退去した。天正12年(1584年)毛利氏と羽柴氏との講和が成り、美作国は宇喜多氏の所領となると再び江原親次が城主となったが、親次は文禄元年(1592年)豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍して病死する。これによって篠向城は廃城となったといわれる。
篠向城は旭川に目木川が合流する地点の東側に聳える標高419mの笹向山山頂に築かれている。現在、本丸、二の丸、三の丸一帯が無線中継施設によって一部破壊されているものの、全体の遺構は良く残っている。2006年11月に訪れた際には案内板なども荒廃していたが、今回再訪してみるときれいになった案内板が設置されていた。
主郭は山頂にあって南北二段の広い曲輪である。四方に腰曲輪が配され、特に南西下の腰曲輪は土塁を設け、中腹に畝状竪堀群を配している。
主郭の西にあるのが二の丸でここは無線中継施設があり、北側に土塁の一部が残るのみである。
二の丸の西にあるのが三の丸で、南北二段で北端はコの字に土塁を設けている。この三の丸の西側山腹一帯には無数の畝状竪堀群が良好に残されており、状態にある畝状竪堀群の中で一番見やすくなっている。
大庭地区から林道が頂上付近まで通じており、車で登ることができる。
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