築城年代は定かではない。永禄年間(1558年〜1570年)初期に安中忠政によって築かれたと云われるが、それ以前に築城されていたという。
安中忠政は甲斐の武田信玄に備えて松井田城を改修し、嫡子忠成を安中城へ置いて自身は松井田城に籠った。永禄2年(1559年)頃より武田信玄が西上野に侵攻し、度々松井田城を巡った争いがあったが落城しなかった。しかし永禄7年(1564年)安中城主の嫡子忠成は武田氏に降伏し、父忠政はそれでも松井田城に籠って防戦したが力尽きて開城した。 父忠政は自刃または切腹を申し渡されたが、嫡子忠成は所領を安堵され安中城主となり、松井田城は武田氏家臣市川国貞が城代となった。
武田氏が滅亡すると織田信長の家臣滝川一益の所領となるが、織田信長が本能寺の変で没すると一益は伊勢へ逃れ、松井田城は北条氏重臣大道寺政繁が城主となる。 この大道寺氏時代天正15年頃に城は拡張され現在の縄張へとなったという。天正18年(1590年)豊臣秀吉による北条征伐では、前田利家率いる北陸勢によって攻められ、4月22日に政繁は降伏開城した。
城は北は九十九川、南は碓氷川に挟まれた東西に続く丘陵に築かれており、南には中山道、北には東山道と古い碓氷道が通っている。大手は北側にあるが、大道寺氏の居館は南の補陀寺にあったという。
主郭は天神山トンネルの東の峰にあり、西に馬出し・二の丸・連続堀切があり、東に安中曲輪がある。この東西に伸びた尾根から北へ伸びる数本の尾根伝いに遺構が残されており、城域はかなり広い。
国道18号線松井田バイパスと松井田小学校の西側を通る道が交差する地点に道標があるが、東へ向かっていないと降りられない。国道から一旦松井田市街地を通る県道217線に入り、松井田小学校の西を通る道をバイパス下を潜って北上するか、補陀寺を目指してバイパスを東へ向かうと良いだろう。道なりに山を越えた付近に登山道入口がある。
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