築城年代は定かではないが応永8年(1401年)に畠山基国によって築かれたと云われる。 畠山基国は紀伊国守護職に任ぜられて大野城へ入ったが、応永8年(1401年)に広城を築いて移り大野城には二男の満則に守らせたという。
大永2年(1522年)あるいは天文3年(1534年)ともされるが、亀山城主の湯川氏と平須賀城主の野辺氏との連合軍が畠山尚順の広城へ攻め寄せ落城した。このとき本丸が落城した後も、東の丸の額田勘三郎が大将となって抵抗していたという。
広城は広川沿いに聳える標高135.7mの高城山に築かれている。 広城はこの高城山の山頂部を中心とする西郭と東尾根にある東郭群から成っていたようである。
「日本城郭大系」や「中世城郭辞典」に掲載されている縄張図では西郭側を主郭としている。この西郭の主郭部は周囲より一段小高くなっているのだが、残念ながら現在は果樹園として造成されてしまっており、遺構ははっきりしなくなっている。
現在でもよく遺構が残されているのが東郭で、主郭から200m程東の尾根に築かれている。東郭は鈎状に屈折した空堀で東西二郭に分かれる。この空堀は北は竪堀、南は一度西に屈折して竪堀として南山腹へ伸びている。
西曲輪は東西二段で南西下に腰曲輪があり、礎石らしき石も確認できる。上の段の東端、空堀に面して櫓台が付いている。南西下の腰曲輪は土塁があり、南端には虎口ついてそこから西尾根に向かって通路が残っている。
空堀の東にある東郭は北から東側に高土塁が付くが、東側は分厚い土壇になっている。その東下に二重の大堀切があり最大の見所である。
高城山の南麓から果樹園用の林道が山頂までついているが、道は非常に狭く普通車は無理。歩いて登るのが良い。
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