いずも・たかせじょう

出雲・高瀬城
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  別名  
高瀬山城
  形態  
山城(304m/200m)
  歴史  
築城年代は定かではない。 南北朝時代に建部伊賀が築いたとの伝承もあるが、今残る形状は戦国時代に米原氏によって築かれたものと思われる。尼子十旗の一つ。
米原氏は近江国坂田郡米原郷の発祥で、佐々木六角氏の支流といわれ、出雲国守護代となった尼子氏の被官として下向したものであるが、その年代については定かではない。
永禄5年(1562年)米原綱寛のとき毛利氏に降り、毛利氏に従って豊後大友氏との戦いに従軍していたが、永禄12年(1569年)尼子勝久が再興をはかり出雲に入国すると帰国し尼子方へ復帰した。
しかし毛利氏によって尼子再興軍も次第に勢力を削がれ、高瀬城と 真山城を残すのみとなったが、元亀2年(1571年)3月高瀬城は落城し、綱寛は真山城へと逃れその真山城も同年8月落城した。
この後は吉川元春が入城し尼子再興軍一掃の拠点となったが、尼子氏が滅亡すると廃城となった。
  説明  
城は大きく3つの区画で構成されている。 山頂付近の「甲の丸」、北に降った「駄置場・小高瀬」、神庭谷口・宇屋谷口から登った合流地点付近にある「鉄砲立」である。

「鉄砲立」は北側2箇所の登り口からの道の合流地点にあり、北側からの進入を防ぐ要所である。
そこから「七曲の坂」と呼ばれる急坂を登り詰めると「駄置場・小高瀬」と呼ばれる所に着く。 「駄置場」は兵糧や武具などを馬で運んだ所であり、毛利軍による攻城兵はここまで登り詰め焼き払ったようである。
その北にあるのが「小高瀬」と呼ばれる曲輪群であるが、ここは現在薮が生い茂り突っ込んでみたもののイバラの群生に撃退された。
ここから更に山頂に向かうといくつもの曲輪群がある。北面に石積みを伴ったもの、井戸跡のような大きな穴が曲輪内に2つあり、S字を描いているようなものなど。
山頂部は南北2段でその南側に駄置場とされる削平地がある。
  城主  
米原氏
  案内  
登山口は3箇所ある。 北側からは神庭谷口(西側)と宇屋谷口(東側)、南側からは光明寺から中国自然道経由で到達できる。
荒神谷遺跡の南側を東西にはしる簸川南広域農道沿いに宇屋谷口の案内があり、それに従って南に進むと、途中の民家(道路沿いに案内が出ている)に「高瀬城址パンフレット」が玄関脇に置かれてありそれを頂いてから登る。
 所在地 
島根県簸川郡斐川町大字学頭
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※距離はおおよその直線距離です。
海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。



最終訪問日
2007年10月

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