建久3年(1192年)峰披(みね ひらく)によって築かれたと云われる。 披は松浦氏の始祖である源久(みなもと ひさし)の孫といわれる。
延徳3年(1491年)城主峰昌(さかえ)は平戸の松浦弘定と激しく争うが結局和睦し、昌の昌の長男太郎興信を弘定の養子として里城を譲り、自身は志佐純元と称して直谷城志佐氏の名跡を継ぎ、後に深江館に隠棲した。
里城は釜田川の東岸にある微高地に築かれている。 案内板が設置されているのは本丸跡とされる地で、現在は畑である。北側に館があり、その周囲に屋敷跡があったとされ、石垣や石塁が多く残されている。本丸の東側には空堀跡が残っている。案内板に記された図面はそのまま城郭大系に掲載されているものであるが、現在も変わらずこの地図通りに歩いて遺構を確認することができる。
国道204号線沿いにある平戸市役所支所の東側の信号を北へ曲がり、北上すると橋を越えて丘陵へ登っていく道となる。登り切る少し手前で、右と左手前に道がある交差点に出る。これを左手前に曲がり最初の家の所に案内板がある。
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