築城年代は定かではない。
平戸の松浦正が峰弘を田平に攻めて城を奪ったことから、有馬貴純が峰弘を援けて平戸を攻めた。松浦正ははじめ勝尾嶽城に籠もったが、これを脱して箕坪城に逃げ込んだ。しかし、ここも守り切れず、延徳3年(1491年)松浦正は大内政弘を頼って海路筑前に逃れた。松浦正は翌明応元年(1492年)大内政弘の援護を受けて平戸に復帰し、松浦弘定と改名した。
箕坪城は箕坪ダムの西に聳える標高288mの城山に築かれている。
山頂部の尾根はちょうどv字になっているが、曲輪はこの両方に拡がった尾根に築かれおり、その周囲は石垣によって固められている。
尾根の合流する南端に虎口を備えた一段低い曲輪があり、南の尾根と北の主郭部とを繋いでいる。
主郭は北東側の尾根の最高所で、ここは南西からスロープがあり虎口となっていたと考えられるが、明覚な入口はない。北側に帯曲輪があり、主郭の北東側には虎口があるが、この帯曲輪も途中で分断してある。北西の尾根は東西に細長く二段になっている。
この城の最大の見所は両サイドに開いた尾根の間、北側の谷間の部分で、曲輪となり湧き水がある。その先の谷間には砂防ダムのような形で、谷間を石塁が埋めてあり、城の遺構と考えられるが用途ははっきりわからない。
石垣造りの主郭部から南西に伸びた尾根に一条の大堀切がある。この先も削平されたような地形があり、東側に道がついて虎口のようになっている。おそらくこの部分までが城域であろう。
県道19号線から箕坪ダムへの分かれ道があり、その先は大きく下へ降って行く道となる。民家から北へ歩いて行くと二ヶ所ほど山に入れそうな場所があるが、北側を少し登るとお地蔵様が祀ってある(地図)。ここから山へ通じる道が付いている。ただし、シダ藪などもあり、途中迂回したほうが楽な所もある。
最寄り駅(直線距離)