築城年代は定かではないが薦野氏によって築かれたと云われる。 薦野氏は丹治式部少輔峯延が下向して薦野村に住み、薦野氏を称した事に始まるとされる。
薦野氏は宗像氏や立花氏に仕えてきたが、永禄11年(1568年)に立花山城主立花鑑載が大友氏に反旗を翻すと、これに反対した薦野宗鎮と米多比大学は鑑載によって謀殺された。 宗鎮の子が薦野増時で、大友氏が派遣した戸次道雪に従って立花鑑載を降し、戸次道雪が立花山城督となるとその重臣となった。
道雪の家督を継いだ立花宗茂にも仕え、子の成家は宗茂の妹を妻に迎え、増時も立花姓を賜った。
豊臣秀吉による九州征伐の後、立花宗茂が筑後国柳河へ転封となると、これに従い薦野増時は筑後国城島城四千石を賜った。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で西軍に属した立花宗茂が改易となると、筑前国福岡に入封した黒田氏に仕えている。
臼ヶ岳城は、薦野集落の南東に聳える標高291.3mの「城の山」山頂に築かれている。現在は登山道が整備され展望所となっている。
主郭は北端の最高所で曲輪は小さく削平も甘い。切岸はしっかりしており、北と西下に帯曲輪が付く。南へ伸びる尾根を堀切で遮断している。
主郭の南の尾根は自然地形であるが、南端部分が段加工されており、緩斜面になった南東側の尾根下に浅い堀切状の地形が残っている。さらに南西の峰には「一の丸跡」と記された標識が建っているが、この辺りはまったくの自然地形である。
登山道は南西麓の溜池の所から付いている。西麓の広域農道沿いにある小野公園の近くから林道の入口があり、その終点に溜池がある。溜池周辺になると山へ入って行く道が何本かあるが、全部無視して終点まで行くと、そこに「こもの城跡登山口」の看板が建っている。 (地図)
最寄り駅(直線距離)