築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1554年)頃に副但馬守によって築かれたと云われる。 副但馬守は但馬国出石の城主であったが、故あって豊前国院内に流れて城を構え、豊後国の大友義鑑に臣従したと云われる。
但馬守を嗣いだ子の副越中守は、但馬守宗澄と名を改め善政を敷いていたが、妙見嶽城主田原紹忍が大友宗麟に諌言して、天正9年(1581年)大友氏は副氏を攻め、但馬守宗澄は自刃して果てた。
副城は道の駅「いんない」の南にあり、北へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。 現在は公園となっており、畝状竪堀群などの遺構が非常に見やすく整備されている。
主郭Iは西を除く三方を高土塁が巡るが土塁の内側は緩やかに傾斜しておりすり鉢状になる。東に虎口1があり、現状ではその外側は曲輪IIの東の虎口2まで伸びる土塁と、主郭東下の二重横堀2に通じる通路がある。
曲輪IIは東屋のある広い曲輪で、南東側に一段高くなった土壇、北西側に腰曲輪、北東側にも帯曲輪状の段がつく。ここも東側に土塁が開口する虎口2があるが、その先は畝状竪堀群や横堀のほうに伸びている。
北山腹には二重横堀があり、道路脇に石組み井戸が残る。
主郭の東側は切り立った深い二重横堀があり、その先に畝状竪堀群が設けられている。竪堀は横堀が直接伸びるもの、上部を起点とするもの、やや下がったところを起点とするものなど様々である。
主郭の南背後はこれも垂直に近い切り立った二条の堀切があり、竪堀は西側へも長く伸びている。
道の駅「いんない」の南、平成の森公園に登る途中にある。南背後に車で登ることも可能だが、麓から遺構があるので道の駅に車を止めて歩いて登るのが良いだろう。