築城年代は定かではないが南北朝時代初期に楢崎利景によって築かれたと云われる。
楢崎氏は宇多源氏の末裔で足利尊氏に属して城を築いたと云う。
貞治元年・正平17年(1362年)楢崎氏は塩城山城主多治備中守とともに山名時氏に与して松山へ侵攻し、秋庭三郎と協力して松山城主高師秀を敗走させた。
戦国時代に楢崎豊景(日本城郭体系では「豊景」、日本城郭全集では「春景」とある)は毛利氏に属して永禄4年(1561年)備後国芦田郡久佐に領地替えとなった。その後尼子氏家臣徳光兵庫守が在城したが、毛利氏によって攻められ討死し、三村氏の所領となり三村親当が城主となった。しかし、天正3年(1575年)備中兵乱により三村氏は毛利氏に敗れ、楪城とともに落城したという。
※楢崎氏は備後国芦田郡久佐へ所替となったとあるが、久佐には「楢崎城」があり、南北朝時代に宇多源氏の宇多豊武が地頭となって楢崎と名乗った地である。
同じ宇多源氏であり、備後楢崎氏の八代には楢崎豊景という人物がいたようであるが、関係はわからない。