築城年代は定かではない。
備中兵乱のときには楪城の支城として富谷大炊助が守っていたが、富谷が毛利方に寝返ったことで楪城はあっけなく落城したという。
朝倉城は標高440mの朝倉山に築かれている。
南北2つの峰に城郭遺構があり、南峰が主郭となる。
南峰は北端最高所I1を主郭として南へ伸びた尾根に曲輪を連ねている。 曲輪の削平は良くなく、I1は中央北側に土壇状の高まりを残し、I2はやや傾斜している。
北尾根は二条の堀切で遮断しており、一番外側も堀切の可能性があり、三重堀切であったかもしれない。内側の堀は浅く横堀状に伸びている。
南端は堀切ではなく竪堀2が設けられている。現在の登山道がこの竪堀下方に続いており、虎口として機能した可能性もあるが不明である。
北峰は小規模な曲輪群で、最高所は幅2mほどしかない、まるで土塁のような細長いものである。
南麓、中国自動車道と民家の間を用水路沿いに登って行き、尾根上まで到達すると踏み跡がある。地元の人は城があるのをご存知で中国自動車道ができるまでは、ここから登っていたと言っていた。
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