びっちゅう・さるかけじょう

備中・猿掛城
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史跡指定
町指定史跡
  形態  
山城(230m/-)
  歴史  
南北朝初期に庄資政によって築かれたといわれるが定かではない。 庄氏は武蔵国児玉党の出自で源平合戦の功により地頭職を得て下向し、幸山城を拠点としたが、資政の時に猿掛城を築き拠点を移した。
室町時代には守護代となり、天文2年(1533年)庄為資は上野伊豆守を攻め滅ぼし松山城主となり、猿掛城には一族の庄実近を置いた。
天文22年(1553年)鶴首城主三村家親は毛利氏の支援を受け猿掛城に攻め寄せるが勝敗はつかず、家親の子元祐を庄為資の養子とすることで和議が整い、元祐が城主となった。
元亀2年(1571年)三村家親と毛利元清の連合軍が松山城を攻め落とし庄高資を討つと三村氏は松山城を拠点とするようになるが、家親が宇喜多氏に暗殺され、毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、必然的に三村氏と毛利氏は敵対するようになる。
天正2年(1574年)毛利氏が松山城の三村元親を攻め落とし、猿掛城も毛利氏の手に落ち毛利元清が穂井田家を継ぎ五千貫をもって城主となる。
天正10年(1582年)羽柴秀吉による高松城の水攻めの際には毛利輝元がここに本営を置いたが羽柴氏との和睦により元清は矢掛茶臼山城に移り、毛利元就の娘婿である宍戸隆家が入る。
関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に転封となると天領となり廃城となる。
  説明  
登山口の所に資料箱があったが、残念ながら中身は無し。
登山口の所でいきなり大手と搦手道が分かれているが大手を登る。 まず香西五郎右衛門一統を慰霊したとされる寺丸につき、三村元祐が養子となり城主になったことでその座を奪われた庄実近が移ったとされる太夫丸へと続く。
山頂へと登りつめると主郭となり、ここは南から北へ向けて一ノ段から六ノ段の曲輪があり、北側は腰曲輪となっている。
東側は馬場と呼ばれる長い帯曲輪があり腰曲輪から三ノ段の大手、巽の出丸へと続いている。
三ノ段が一番広く、この東側には大手門跡と井戸跡があり、北側の一部に石垣が残る。
一ノ段は南から西面を土塁が覆い、その背後は堀切で東下には巽の出丸があり、その脇には竪堀がある。
堀切を越えて南に向かうと削平地があり、その南側には堀切らしきものが残る。

猿掛山は小田郡と吉備郡の郡境で城址を東西で二分するようになっており、それを示す石列が残っている。これはおそらく城址の石垣の石を転用したものと思われる。
  城主  
庄氏,毛利氏
  案内  
国道486号線から福頼橋を渡りすぐ左折、少し行った所に案内板があり登山口がある。
 所在地 
岡山県小田郡矢掛町横谷(猿掛山)
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※距離はおおよその直線距離です。
海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。



最終訪問日
2007年11月
 縄張図 
現地案内板より
猿掛城縄張図

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