文明11年(1479年)一条教房が藤原信隆を京都から呼び寄せて、1200石を与えて伊与木の地に置き、伊与木城を築かせたと伝えられる。
天正2年(1574年)長宗我部元親が幡多郡を手中にすると、伊与木対馬守隆康も元親に仕えた。隆康の子弥平次は弓の名手で、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍したが病没した。
伊与木城は伊与喜小学校(休校)の北側の山に築かれている。
もともと開墾されていたようであるが、その後に公園化されたようで主郭には展望台があり、平成11年(1999年)に建立された石碑があるが、現在はそこに至る道も荒れ放題になってしまっている。
東の尾根背後をいくつかの堀切で遮断、西側を城域とし、三段ほどの曲輪があり、尾根先にも堀を設けていたようであるが、詳しくは見学していない。
小学校の裏手から山へ入る舗装路があるが、入口は東側の相撲場の脇から谷筋の砂防ダムに入っていくほうがわかりやすい。小川に小さなコンクリート端が架かっており、その奥に道がある。南側から回り込む。
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