築城年代は定かではない。『丹後国御檀家帳』に「五ケの御城」として石川小太郎殿と記されている。また天正年間(1573年〜1592年)には山岡民部が城主で天正10年(1582年)に細川氏によって攻められ落城したという。
五箇城は慶徳寺の西背後に聳える山に築かれている。『京都府中世城館跡調査報告書』によれば丹後地域で最大の城域を持つ山城とされており、南は標高124.8mの三角点のある辺り、北は尾根の先端近くまでとなり、南北で約700mに及ぶ。
主郭は慶徳寺の南西の標高140m付近で、一段高い切岸に囲まれた曲輪となり一部に土塁が残る。この主郭を中心に南北と東山腹に曲輪を展開している。
主郭から南尾根の遺構は堀切と小さな曲輪の連続で、さほど見るべき所はないが、南端の標高130mを中心とする曲輪は東西に二重堀切、南尾根は横堀状の空堀、北山腹には連続竪堀とこの部分だけとても堅固になっている。
主郭から北の尾根は観音堂の所から東西二つの尾根に分岐しているが、城郭遺構は両方の尾根に拡がっている。この尾根も曲輪と堀切の連続であるが、西側の尾根には途中東山腹に連続竪堀の遺構がある。
慶徳寺境内南側から主郭の少し北にある秋葉山大権現の社まで山道が付いている。北端の尾根から見学したい場合は墓地から少しよじ登ればすぐに城域となる。
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