築城年代は定かではないが長島氏によって築かれたと云われる。 長島氏は天草一族で鎌倉時代初期頃から長島を領有したという。
長島氏は南北朝時代から室町時代にかけて勢力を拡げ、天草八氏(大矢野・上津浦・栖本・志岐・天草・宮地・久玉・長島)の一人に数えられるようになった。 しかし、天文23年(1554年)長島但馬守鎮真のとき、人吉の相良氏の勢力が及ぶと長島氏は出水の野田領主島津常陸守忠兼(島津薩州家庶流)を頼った。
その後、天草越前守が在城していたが、永禄8年(1565年)島津忠兼は長島へ侵攻し堂崎城を攻め落とした。これ以降、天草諸島として肥後国に属していた長島と獅子島は薩摩国に編入され、現在も鹿児島県に属している。
長島を領有した忠兼であったが、同年主君の島津義虎によって出水で謀殺された。翌年には野田や長島で疫病が大流行し多数の死者を出した。このことが忠兼の祟りとして恐れられ、堂崎城跡に若宮神社が祀られた。
堂崎城は長島の西部中央にあり海に張り出した半島状の山に築かれている。 若宮神社が鎮座する西側が一段高く「本丸」、東側は畑などになっているが「御城内」と呼ばれる二郭、南麓の城川内川の城内側を「内馬場」、城外側を「本馬場」という。
城の遺構は曲輪に土塁と一部石塁が残る。しかし、なんといっても現在も登城路となっている石段が往時のものだと伝えられる。この通路は右上に登り、一度屈折して左上に登るように付いているが、屈折する部分に「立番丸」と記された小郭があり、最後の城内に入る部分には門跡として石積が残る。
案内板には長島町指定史跡「堂崎城の石段」とあるので、この石段のみが史跡に指定されているようである。
南麓に案内板と島津忠兼顕彰の石碑が建っている。 東の山腹にある神泊山長光寺は曹洞宗でここに天草越前守の位牌が残るという。