築城年代は定かではないが、天正5年(1577年)上杉謙信の能登侵攻に同行した嶋倉孫左衛門泰明が鶴町や大箱村を知行地として与えられ、五十里城を築いたという。
しかし、天正7年(1579年)温井景隆、三宅長盛らが越後勢を能登から駆逐したとき、嶋倉泰明は越中魚津に逃れたが、上杉家臣の非難に憤慨して魚津城で自刃したという。
五十里城は地元で「城つむり」と呼ばれる町野川に面した丘陵に築かれている。
山頂を注進に山腹に帯曲輪状に削平地が何段も築かれているが、城の遺構なのか畑や植林による改変なのか判断が難しい。