築城年代は定かではない。応仁年間(1467年〜1469年)に工藤行光の分流が築いたとも建武年間(1334年〜1338年)に横溝工藤氏が築いたとも云われる。
戦国時代には工藤氏の末裔と云われる葛巻氏の所領で、葛巻掃部亮光祐は南部氏に仕えて葛巻村千二百六十石を領していたという。光祐の後は信祐・政祐と続く。葛巻政祐は九戸政実の女を娶っていた。天正19年(1591年)九戸の乱に際して政実は葛巻氏に味方するよう説得したが、葛巻氏はこれを拒否した。怒った政実は葛巻城に攻め寄せたが葛巻氏はこれを撃退し、南部信直より千石の加増を受け、この戦いで敵中に入り込み首級をあげて戻ってきた信祐の二男直祐は恩賞として百石を賜ったという。
葛巻城というのは実のところその所在が確定されていない城だという。 ここで示しているのは八幡館と呼ばれる館で、これとは別に国道を挟んで北東にある宝積寺付近にあったとされる葛巻館・鏡沢館もその候補で、あるいはこの三つの館を総称して葛巻城と呼んだのではないかという説もある。
八幡館は馬淵川に面した独立丘陵で川が三方を巡る要害の地で、山腹には南部信直に由来する八幡神社が鎮座する。 山頂はわずかに切岸加工された曲輪が両側にやや窪んだ地形があるが用途はわからない。北東下には帯曲輪がついている。 西へ続く尾根はわずかな段があるが概ね自然地形で緩やかに下っている。
葛巻町役場の西にある丘陵が八幡館跡で国道から北側の集落内に少し入ったあたりに参道入口がある。