詳細不明。
「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」によれば、大網の長峯に居を構えていた板倉氏、あるいは、永禄8年(1565年)に北条氏が、土気城を攻めたときに、土気城の宿城で大網半九郎という人物が討ち取られており、大網の名からこの城に関連する一族と推測されている。また日本城郭大系には永禄年間(1558年〜1570年)に土気城主酒井玄治の二男大蔵介が在城したとある。
大網城は大網小学校の裏手にある日吉神社や浅間神社の祀られた丘陵に築かれていたという。現在は東金線が通っておりこれにより城地は分断されているという。
神社の境内ということもあって日暮れ間近に散策したのだが、肝心の神社への参道が見あたらない。縄張図にある居館跡の有る所に行ってみたが、民家の敷地になっており散策はあきらめ、線路側に回ってみると削られた山肌が見えここにも参道がない。近くで散歩していた人に聞いてみたが神社があるのは知っているが、参道は知らないという。結局神社への道がわからず遺構の確認はできなかった。その後、改めて調べた所、先の居館の部分と小学校の校庭内から参道があるという。どおりでわからないはずである。