詳細不明。城主は粟野半六郎で北畠家臣という。
天正4年(1576)北畠具教が北畠信雄によって謀殺されると、具教の弟具親が挙兵する。天正5年(1577)粟野半六郎はこれに呼応して九曲城で兵を挙げたが、赤桶城とともに信雄の家臣日置大膳兄弟によって攻め落とされたという。
九曲城は大きく蛇行して流れる櫛田川によって半島状になった丘陵頂部に築かれており、現在は参道が整備されている。
山の上という制約された立地でありながら全体では方形を意識した縄張になっており、変わった山城である。
最も高いのが北西Iであるが、曲輪なのか分厚い土塁なのか判断に迷うような広さで北端に八幡神社跡がある。神社は現在麓の集会所のところに移されている。
曲輪IIが最も広く削平された曲輪で北辺に土塁、南東隅に升形状の虎口があるが、IIIとの接続はスロープにはならず段差がある。
曲輪IIIは東から南側面を覆うL字状の曲輪で幅は広いところでも5mほどである。
北から東は絶壁で南西に伸びる尾根に堀切2、堀切3を設けている。また南東部分も堀切4であったが作業林道がここまで到達していて破壊されている。堀切3は尾根上から横堀状に伸びて最後は竪堀になって谷に落ちている。
国道沿いに道標がある。集会所の少し手前の山裾に鳥居があり、そこが参道入口。