詳細不明。
湯谷城は日野川とその支流、湯河川、若松川が合流する地点の南、北へ伸びた尾根頂部に築かれている。
山麓にある曲輪XXが居館で、その背後の山に詰城があり、居館とセットになった山城となっている。
山城は南端最高所の曲輪Iから北に向かって曲輪Xまで段々に築かれており、削平も切岸も明瞭である。曲輪Iの南端は櫓台状にやや高く、南背後は三重堀切1で遮断している。三重堀切1は城内側が大堀切で、その先に二条の堀切となり、外側もやや加工されているが、後世の改変の可能性もある。南尾根は緩斜面地形が続くが遺構はない。
尾根先の曲輪IX、Xの下方に放射線状になった畝状竪堀群2があり、そのまま西側面に続いているが、この部分は崩落して不明瞭になっている。
曲輪Vから北西側に続く尾根には四重堀切3が設けられているが、残念ながら作業林道が堀切を破壊しており、状態は悪い。残存部分を見るとかなり大規模な堀切であったようだ。
この尾根先の処理が北と北西で異なっている点が湯谷城の特徴で、畝状竪堀群のある北側面は多重堀切で処理されている北西尾根よりも急坂になっている。大手道は不明でまったくの推測であるが、この2つの谷間を登り、畝状竪堀群を経由して曲輪Xに上がっていたのではないだろうか。
麓にある曲輪XXは南尾根を大きな堀切4で遮断し、四方に土塁が巡っていたと思われるが、南辺の高土塁、東辺の土塁を除いては低い段となっており旧状は不明である。
虎口もはっきりしないが南東の開口部、北中央にも小さな開口部がある。
『図説中世城郭事典』には居館部の東麓のあたりに城主の墓と伝えられるものがあるとするが、見つけられなかった。
多里地域振興センターから川沿いにある道を進むと居館がある。居館背後からの山道をたどると山腹で消滅するが、そのあたりから急坂を登れば畝状竪堀群に至る。
四重堀切を貫通している作業林道は西麓から続いていると思われるが入口は不明。作業道は三重堀切よりかなり南の尾根上に登るように付いている。
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