天正6年(1578年)上杉景勝によって築かれた。 上杉謙信が急死すると、その養子であった景勝と三郎景虎の間で「御館の乱」という家督相続争いが起こった。 三郎景虎の父は北条氏康であったため、景勝は関東からの援軍を阻止する目的で三国街道を見下ろす要所に築城した。築城は家臣の深沢利重、富里三郎左衛門などによって行われた。
天正6年(1578年)北条氏の猛攻によって落城、翌天正7年(1579年)景勝によって奪還されたが再び攻め落とされている。
荒戸城は芝原トンネルの上、標高789m程の山に築かれており、眼下には旧三国街道が通っている。現在は史跡として整備されている。
荒戸城は天正期に局地的な防衛のために築かれた小規模な山城であるが、戦うために必要な技巧的な縄張りを駆使した城で、現在も遺構が良好にある極めて重要な遺跡である。
山頂の主郭を中心に曲輪II、III、IVが配置されている。曲輪II、IIIはいずれも主郭を経由して行き来する構造であるが、曲輪IVは主郭との通路が確保されておらず、曲輪IIから竪堀9に木橋を架けていたと考えられ、捨曲輪と思われる。
主郭の虎口は2ヶ所あり、東の虎口1は右折れで入る構造で、外側のスロープは幅広い。南の虎口2は左折れで入る構造で、外側の通路は竪堀3によって制約され狭くなっている。
曲輪IIは北に虎口3を開く。内側はやや凹んだ空間があり、外側は馬出し構造になっている。南端は曲輪IVとの間に竪堀9があるが、それに面して一段高い土壇がある。
曲輪IIIは西に虎口4を開く。外側は2つの竪土塁に囲まれ横堀4と横堀5が食い違ってた桝形空間を作り出す。横堀5はだいぶ埋まっているが仕切土塁のようなものが何本か確認できるので、障子堀(畝堀)であった可能性がある。
堀6は曲輪IIとIIIを区画するもので、切岸下部からV字に竪堀状に落としている。
芝原トンネルの上にある旧道へあがっていけば駐車場と登山口がある。
最寄り駅(直線距離)