築城年代は定かではないが沓沢但馬守忠久によって築かれたと云われる。 沓沢忠久は近江の沓沢庄から最上義定を頼ってこの地を賜り差首鍋館を築いたという。
沓沢掃部介忠国は鮭延氏に属して最上義光の攻撃を受けて敗死すると、嫡男兵庫介忠家は幼小であったため、家老の野崎館主沓沢玄蕃が差首鍋館にはいった。
差首鍋館は鮭川と西川が合流する地点にあり、西を除く三方を断崖で囲まれた天然の要害に築かれている。
周囲から見た印象とは異なり西からの登り道は比較的なだらかで、山上に至ると広い平地が拡がっている。差首鍋館は大きく東の主郭と西の二郭からなっており、それぞれ広大な平坦面を有している。
主郭は東の北側が一番高く南下に数段の帯曲輪がある。主郭は西端と東の一部に土塁が付いており、西中央に虎口がある。この虎口がこの城の最大の特徴で、二郭に降りるスロープをジグザグに二回折り曲げるスロープとなり、土塁が付いている。虎口の南側は大きな三条の竪堀があり南端はそのまま崖に落ちている。主郭の北側はこの虎口に横矢が架かるようにやや張り出しており、切岸下は横堀になっている。
主郭でもかなりの広さであるが、西下に拡がる二郭はさらに広く北側が自然地形の丘陵になっている。西端部分に低い土塁が巡り現在の登り道は西端北側に通じるが、南側にも開口部がある。
西を走る国道344号線沿いに標柱がある。そこから作業道が二郭まで通じている。車は入口脇に駐める事ができる。
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