築城年代は定かではない。康安元年・正平16年(1361年)臼杵時直による築城(『臼杵小鑑』、あるいは永正2年(1505年)臼杵氏六代臼杵長景による築城(『豊後国史』)など諸説ある。臼杵氏ははじめ大神氏の一族であったが、大友氏庶流から直時が養子に入り大友氏一族となっている。
水ヶ城は標高280.8mの水ヶ城山から北へ伸びた尾根の標高212mの峰に築かれている。
主郭は北西から南東へと長く伸びた曲輪で、南側に一段小高くなった土壇状の地形が残るが、上は削平されていない。曲輪の中央東部にl字に窪んだ虎口状の地形が残されているのだが虎口かどうかはっきりしなかった。
主郭から南西背後に伸びる尾根は堀切で遮断し、その手前に竪堀を二条落としている。北へ伸びた尾根先も大きめの堀切で遮断している。
主郭の東側面はシダ藪であるが、下方に連続竪堀が無数に落ちている。東へ伸びた尾根下には土橋が架かる堀切があり、その先も曲輪のような地形が続いているが、東端部は藪になっていて堀切などは確認できなかった。
大友系臼杵氏初代臼杵時直、六代臼杵長景、七代臼杵鑑速、そして耳川合戦で討死した臼杵統景の供養塔が住宅地の一角に残されている(地図)。
東麓にある智徳院(廃寺?)の谷間から北の尾根上にある畑に登り、そこから尾根伝いに山道が城跡まで続いている。ただし谷間の部分は宅地?でたまたま許可を得て登る事ができたのだが、勝手に入るには気が引ける場所である。
未確認ながら城跡一帯に鉄塔が建っており、その整備道が北西麓から続いているようである(地図)。こちらから登る方が無難であろう。
最寄り駅(直線距離)