源実朝は鎌倉幕府三代将軍で源頼朝の子である。源頼朝没後、嫡男頼家が二代将軍となったが、従来の習慣を無視した独裁的な政治を行って御家人たちの反発を招き、十三人の合議制が敷かれ、やがて将軍の座を追われた。北条氏によって三代将軍の座に付いたのが実朝で、やがて右大臣へと昇進するが、建保7年(1219年)それを祝う鶴岡八幡宮拝賀の最中に猶子であった公暁によって暗殺された。実朝の首は行方不明となっていたが、追っ手の一人、三村義村の家臣武常晴が見つけ波多野氏を頼ってこの地に埋葬したと伝えられ、それがこの源実朝公御首塚である。
源実朝公御首塚は秦野市田原ふるさと公園の所にあり、南側には波多野氏の屋敷跡とも推定されている東田原中丸遺跡がある。