神奈川県の足跡

城郭放浪記


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相模国分寺写真
相模国分寺国史跡
神奈川県海老名市国分南1
相模の国分寺は出土した瓦が桶巻作りと一枚作りが混在していることから八世紀半ばに造営が始まったと推測されている。 相模国分寺の伽藍配置は中門と講堂を回廊や築地塀で結び、中門から向かって右側に金堂、...
寒川神社写真
寒川神社
神奈川県高座郡寒川町宮山3916
寒川神社は相模国一之宮で延喜式では相模で唯一の名神大社となっている。主な祭神は寒川大明神。
相模国分尼寺写真
相模国分尼寺国史跡
神奈川県海老名市国分北2丁目6
相模国分尼寺は国分寺の北約600mのところにある。中門と講堂を回廊で結び、中央に金堂、北東隅の胸像、北西隅に鐘楼を配した伽藍配置となっている。 現在は金堂跡に庚申塔があり、北側には講堂跡の碑があ...
土肥一族の墓(城願寺)写真
土肥一族の墓(城願寺)県史跡
神奈川県足柄下郡湯河原町城堀
城願寺の土肥一族の墓は、源頼朝を助けて鎌倉幕府の創設に尽力した土肥實平らの墓である。土肥實平の子遠平は小早川氏を名乗り安芸国沼田荘へと移り、戦国時代には毛利元就の三男隆景を養子に迎えた小早川隆景へと繋...
小田原藩主大久保家墓所(大久寺)写真
小田原藩主大久保家墓所(大久寺)市史跡
神奈川県小田原市城山4-24-7
大久寺にある小田原藩大久保家墓所は前期大久保氏の墓所である。小田原藩大久保家は大久保忠世が初代として小田原城主となったことが始まりであるが、二代忠隣のときに改易となったが、その子孫が再び小田原藩主とな...
源実朝公御首塚写真
源実朝公御首塚市史跡
神奈川県秦野市東田原
源実朝は鎌倉幕府三代将軍で源頼朝の子である。源頼朝没後、嫡男頼家が二代将軍となったが、従来の習慣を無視した独裁的な政治を行って御家人たちの反発を招き、十三人の合議制が敷かれ、やがて将軍の座を追われた。...
伝佐原義連廟所(満願寺)写真
伝佐原義連廟所(満願寺)市史跡
神奈川県横須賀市岩戸1丁目4
佐原十郎義連は鎌倉時代初期の武将で三浦義明の子である。佐原城を居城としていた。 建久3年(1192年)の源頼朝の上洛に従って左衛門尉に任ぜられている。三浦一族が宝治合戦によって宗家を含む一族の大半が...
太田道灌墓所(大慈寺)写真
太田道灌墓所(大慈寺)市史跡
神奈川県伊勢原市下糟屋
太田道灌は扇谷上杉氏の家宰として活躍した広く世に知られている。文明18年(1486年)道潅は扇谷定正の糟屋館に招かれ、そこで暗殺された。 太田道灌の墓は大慈寺と洞昌院にあり、大慈寺は首塚、洞昌院...
三浦道寸の墓写真
三浦道寸の墓
神奈川県三浦市三崎町小網代
三浦道寸こと三浦義同(よしあつ)は平安時代末から続く三浦介を名字とした三浦氏で、家督を子の義意に譲ってからは岡崎城に居た。小田原の伊勢宗瑞と敵対し、永正9年(1512年)には岡崎城を攻められ、さらに住...
三浦義意の墓写真
三浦義意の墓
神奈川県三浦市三崎町小網代
三浦義意は三浦道寸の嫡男で三浦氏最後の当主である。父道寸は義意に家督を譲って岡崎城に居たが、小田原の伊勢宗瑞との争いで、岡崎城、住吉城を落とされ、新井城に籠もって戦った。約3年に及ぶ籠城戦であったが、...
三増合戦場写真
三増合戦場町史跡
神奈川県愛甲郡愛川町三増
三増合戦(三増峠の戦い)は永禄12年(1569年)に行われた北条氏と武田氏の戦いである。 永禄12年(1569年)小田原城を包囲するまで攻め入った武田信玄は帰路に三増峠を選択した。これに対して北条氏...
武田信玄旗立松(三増合戦)写真
武田信玄旗立松(三増合戦)町史跡
神奈川県愛甲郡愛川町三増
永禄12年(1569年)武田軍と北条軍の三増合戦(三増峠の戦い)で、武田信玄が大将旗を立てたと伝わる場所である。 武田信玄旗立松は東名厚木カントリー倶楽部の敷地から登山道があり、標高309mの山...
足跡地図
六所神社
神奈川県中郡大磯町国府本郷935
総社
鶴岡八幡宮
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
一宮
川勾神社
神奈川県中郡二宮町山西2122
二宮
比々多神社
神奈川県伊勢原市三ノ宮
三宮
前鳥神社
神奈川県平塚市四之宮4-14-26
四宮
太田道灌墓所(洞昌院)市史跡
神奈川県伊勢原市上粕屋1160
墓碑
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