詳細不明。赤埴氏の城とされる。また織豊系陣城との見方もある。
赤埴上城は三郎岳から西へ伸びた山裾の標高601.5mから北の部分に築かれている。
赤埴上城は大きく四つの遺構に分類することができ、それぞれ時代の異なる遺構ではないかとの印象を受けた。
一つめは北へ付きだした三角尾根の部分に築かれた曲輪で、南の最高所になる部分を土塁として残し、南側を堀切で遮断して台地から切り離し、尾根先側に広い削平地を設けている。これは伊賀や甲賀などで良くある作り方で、これこそ赤埴氏の城ではないのだろうか。
二つめは谷を挟んだ南西側にあり、同じく南を除く三方が谷となる部分に主郭があり、南から東側に土塁と堀を設けている。南に虎口が開口し、外側には土塁囲みの馬出しがあり、東に開口、西は谷筋に登山道と連結する。この部分は明らかに技巧的な縄張りであり、織豊系の陣城とみて間違いないであろう。
三つめはそこから墓地を隔てて南側にある遺構で、北、西、南の三方をコの字に囲むように低い土塁と浅い横堀状の溝が巡る。この遺構は古くより鹿垣ではないかと考えられていたが、それに対して先の織豊系陣城の駐屯スペースとの見方もあるようだ。実際に見てみた印象としてはやはり城郭遺構ではなく鹿垣などではないだろうか。理由としては西側に急斜面があり、それを防御遺構としてうまく利用しているのが先の織豊系陣城であるが、この遺構は急斜面からやや離れた位置に土塁と横堀を設けている。さらに緩斜面が拡がる東側に対して土塁と堀を設けた方が防御遺構としては自然なように感じるが、東側には土塁も堀も存在していないといったところであろうか。
四つめの遺構は未確認であるが、南西の道路近くにわずかにl字の土塁が残っているようである。
仏隆寺を越えて進んで行くと赤埴城の入口に道標がある。この入口になんとか一台車を入れるスペースがある。
最寄り駅(直線距離)