築城年代は定かではないが武藤氏によって築かれた。
戦国時代には武藤上野介友益が城主で、若狭守護武田氏の有力家臣であったが、領地が隣接する本郷氏や逸見氏とは度々争っていた。
元亀元年(1570年)4月織田信長は武藤友益の討伐を名目に若狭に侵攻し、そのまま越前朝倉攻めに向かったが、浅井長政が朝倉方に転じたため、信長は急遽京へ帰還した(金ケ崎の退き口)。京に戻った信長はすぐに明智光秀と丹羽長秀を武藤氏のもとに送り武藤氏を降伏させ、城の破却と武藤友益の母を人質とした。このとき破却された城が石山城と考えられている。
元亀元年(1570年)9月、反信長として本願寺が決起すると朝倉・浅井氏もこれに呼応して比叡山へ進出し信長と対峙するが、武藤氏もまた反信長として蜂起し、信長方の山県氏の賀羅岳城を攻め落とした。しかし朝倉・浅井軍が信長と和解すると、武藤氏は信長から所領を没収され、信長方であって逸見氏に与えられた。
石山城は標高187mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂から北へ伸びた尾根に主要な曲輪群を連ねており、そこから四方に伸びる尾根を堀切で遮断している。残念ながら北端部や東の一部は道路建設によって遺構が消滅しているが、発掘調査によって畝状竪堀群も検出されているようである。
山頂部の曲輪Iは岩が露出して北側が土塁状に残された小郭であるが礎石があり櫓台のような施設と考えられる。北下にある曲輪IIが最も広く丁寧に削平され、礎石も多数残されており、ここが主郭と考えられる。南下にも曲輪IIIがありここも礎石が確認されているようである。
曲輪IVから北へ続く尾根は東側にスロープとなる通路があり段々に削平された曲輪群が北端まで続いていたようである。
山頂から南へ伸びる尾根はやや離れたところに二重堀切1がある。南東尾根側は一番外側は浅いが三重堀切2があり、一番上の堀切に面して両側に竪堀が確認できる。
東尾根は大規模な三重堀切3があり、その先に続く尾根に二段の曲輪群VIが残るが先端は消滅している。
西へ伸びる尾根には堀切4があり、その先にも小規模な曲輪群VIIがあるが、城の遺構かどうか判断が難しい。
北西に伸びる尾根には小規模な堀切5があり、そこから続く尾根に曲輪群Vがある。この曲輪群は小規模ながら城の遺構のようである。
石山から名田庄に向かう県道のループ入口付近に登口があり、駐車可能である。
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