築城年代は定かではない。城主は福良丹後守宗澄で東氏とも称した。 福良氏の祖は河野十八家の一つで仁井田庄司殿と呼ばれていた。
天文年間(1532年〜1555年)に一条房基に攻められて降ったが、後に長宗我部元親に従った。宗澄は朝鮮の役で討死したという。
本在家城は四万十川と小野川が合流する地点の北東に聳える標高330m程の山に築かれている。
南北に長い山頂を大堀切で南北に分断した二つの曲輪から成っており何れも切岸は高い。北曲輪は北尾根と東尾根にそれぞれ連続堀切を設けて遮断する。一方南曲輪は西から南側面にかけて畝状竪堀群を設けており、西尾根と南尾根にそれぞれ一条の堀切で遮断している。
南東麓に墓地があり、その辺りから尾根道を登った。下山も同様に道を選択したが、南尾根のほうが明瞭な山道が付いているので、そちらから登るルートもあるかもしれない。
最寄り駅(直線距離)