築城年代は定かではない。 城主は首藤山内氏で窪川とも称し仁井田五人衆なかで一番の勢力を誇った。
はじめ津野氏、後に一条氏に属したが元亀2年(1571年)山内宣秋のとき長宗我部氏に降った。文禄5年(1596年)宣秋は文禄の役で朝鮮で討死したという。
慶長6年(1601年)長宗我部氏が改易となり山内一豊が土佐に入国すると、その重臣林勝吉が五千石を賜り窪川に入部した。林氏は山内一豊から山内姓と一の字を賜り山内伊賀守一吉と称した。この林氏の時代には窪川城ではなく対岸に虎渓山城を築いて居城とした。
窪川城は四国霊場37番札所岩本寺の南背後に聳える標高372mの茂串山に築かれている。 城址は四国霊場ミニ八十八箇所巡りコースとなっているが、近年は余り使われておらず、山道も荒廃してきている。
主郭は山頂にあり土塁囲みで広く、西に虎口1を開く。現状東側にも開口する部分があるが、後世の改変と思われ、東尾根の曲輪IVは北の堀切3を経て虎口2へ回り込んで主郭に登るルートが想定される。
主郭の西下に南北に長い曲輪IIがあり、北端に虎口2を開く。北西に続く尾根に曲輪III、IVがあり、ここに二回折れて入る虎口3を設けている。
主郭から東へ伸びる尾根には曲輪VI、VIIがある。削平はやや甘く、切岸も西側に比べると甘い部分が多いが、東側は土塁囲みで東端中央に虎口4を開く。虎口4は食い違い虎口であるが、内側は左に折れて入る構造になっている。虎口4に隣接する土塁は幅広く、南辺には軽微な折れも確認できるが、横矢を意識したもののようには見えない。
尾根を遮断する堀切は以外に少なく、東尾根側に二重堀切1、南尾根に堀切5、北の曲輪IIIとの間が堀切3となっているくらいである。側面は西に畝状竪堀群4、南に畝状竪堀群6、北にも横堀から派生する竪堀群2がある。
岩本寺の西に三熊野神社の参道入口があり入口に案内板がある。ミニ八十八箇所巡りルートがあったが、現在は道が消滅しかかかっている。
登山道は熊野神社から谷筋を登って行くルートがあり途中にミニ八十八箇所巡りの石仏が点在している。ミニ八十八箇所巡りルートは熊野神社東の窪川家老山内家の墓所付近に戻ってくるルートであるが、こちらも途中で道がなくなってしまっている。
最寄り駅(直線距離)