築城年代は定かではないが水野監物忠綱によって築かれたと云われる。 忠綱は緒川城主水野氏の一族で、常滑水野氏の祖となり、大和守、監物守次と三代の居城となった。
天正10年(1582年)水野守次は本能寺の変で明智光秀に与して常滑城を退去し、その後は織田信雄の家老星崎城主岡部重孝の持城となった。天正12年(1584年)岡部重孝が織田信雄によって殺されると天野五右衛門が常滑城に入ったが、三河国刈谷城主水野忠重の攻撃を受けて落城した。
常滑城は常滑港の東にある市街地に築かれていた。 「常滑村古城の図」を見ると東西に伸びた丘陵に六郭が描かれており、現在の場所では東は山方3丁目付近から西は正法寺境内付近で東西約800m程の規模であろうか。
現在城址は市街地化が著しく遺構は残っていない。水野氏三代の遺徳を偲んで建立された地蔵堂(正法寺)が高台となっており、その前にある公園に石碑と案内板が建てられている。