平治年間(1159年〜1160年)長田忠致・景致父子の屋敷と伝えられる。
平治の乱に敗れた源義朝は東国へ逃れて立て直すため東海道を下向、尾張国で家来の長田忠致邸に身を寄せたが、長田氏によって源義朝は討たれてしまった。 長田氏は恩賞として三河国高橋荘を賜り、三河国長田館に住んだという。
長田屋敷は源義朝の墓所のある野間大坊の東側にあったという。 現在は宅地や田畑となり遺構は残っていないが、屋敷跡を示す看板があるという。残念ながらこの看板は見つけられなかった。
隣にある野間大坊には源義朝、家臣鎌田政清夫妻、野間大坊で自害した織田信孝の墓などがある。