築城年代は定かではない。城主は真野氏で、佐々木経方の六男行範が祖となる乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。
永正15年(1518年)の城主は真野土佐守信重で、小谷城主浅井備前守亮政に攻められ落城した。
元亀元年(1570年)の城主は真野十郎左衛門元貞で、佐々木六角氏に従って織田信長と対立したが落城した。城を脱した元貞はその後、出家して西養坊宗誉れと号し、その子孫は旗本神保氏の代官を勤めたという。
真野城は南へ張り出した丘陵に築かれていたという。 現在山上の北側は新興住宅地となって開発されている。その中にある小公園に真野古墳の案内板とともに石室が展示されている。南側の墓地部分は現在遺跡発掘中で、昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡と云われ、それに伴うものであろうか。今回墓地側は散策していないので、不明だが削平地が拡がるだけのようだ。